2010年6月29日火曜日

ジグソーパズル -肆章-

あれで終わりだと思ったら大間違いですよ!

前回のあらすじ。

暴力が全てを支配する世界となった最終戦争後の199X年。
伝説の暗殺けn(ry


どこの北斗神拳ですか。


前回の続き。

言ってしまうと、2000ピースのタロットカードを作成した後は、もう「やりきった」感が私に襲いかかってきてしまい、その後ジグソーパズルを作る機会はありませんでした。
まぁその、他にやりたくなるような絵がなかったというのも理由の一つのですが、2000ピースを1日で作り終えてしまったトラウマ経験が、一気に私のジグソーパズル熱を奪ってしまったのは疑いようのない事実です。
2000ピース以上、つまり3000ピースや5000ピースに挑戦すれば、また新たな感動の渦を呼び起こすかもしれない、という考えはいつも頭の中にあったのですが…


そんな大きいモノ作って、どこに飾るんだ。


という現実的な問題がありまして。

2000ピースのジグソーパズルも1035*747mm…紙のサイズで例えると、B1サイズにもなるような大きさですので、実家でさえ飾る場所を探し回らなければいけないくらいでした。
結局このパズルは、しばらく実家の階段の壁に飾ることになったのですが…なんというか、それだけで家が軽く美術館のような雰囲気を醸し出してしまうくらいの勢いです。
3000ピースとか5000ピースとか、最近の液晶TVの画面を超えるような大きさになってしまいます。
まぁ、3000ピースにもなると、一つ一つのピースが小さくなるので、実際には46"か52"くらいの液晶TVサイズで済むようなんですが。


そんなこんなもありまして、ジグソーパズルの世界から身を引いた伊藤少年は、いつしか伊藤青年になっておりました。


どこで知ったかもう覚えていませんが、伊藤青年は風の便りで「ジガゾーパズル」というパズルの存在を知ることになります。
「地球上の誰の顔でも作れます」という触れ込みを「どんな絵でも作れる」という意味に曲解し、勢いでこのジガゾーパズルを専用額縁と一緒に購入しました。

ピース数はたったの300ピースなんですが、これが俺の新たなジグソーパズル人生の始まりなんだ!と信じて疑わない伊藤青年にとっては、もはや2000ピースのトラウマはどこ吹く風。
忘れやすいって、ある意味最高のスキルなのかもしれませんね。


例によって会社に届けてもらった荷物を家に持ち帰り、さっそく中身を開封。


( ・ω・)  何々、まずは作りたい画像をメールで送るわけだな。

∑( ・ω・) え、コレ携帯電話で撮った写真じゃないとダメなの?
       しかもサイズ指定アリ!?

( ・ω・)  何にしようか…。とりあえず手始めにネコでやってみるか。

( ・ω・)  「なるべくアップで、フレームいっぱいに顔が収まるように撮れ」?

(#・ω・)  ←だんだん面倒になってきた

( ・ω・)  よし、撮るぞ。

(#・ω・)  コラ、逃げるな。動くな。大人しくしろ。刺すぞ

( ・ω・)=3 やっと写真撮れた…。これをメールに添付して送信…っと。

∑( ・ω・) 早っ。もう返信キタ。

( ・ω・)  URL…?え、webにアクセスしなきゃなの?

(#・ω・)  ←携帯電話でメールとかインターネットするのが面倒な人

(;・ω・)  マークがズラリと並んでる…。
       ピースにも同じマークがあるから、この通りに並べろって寸法なのね。

(;・ω・)  このマークのピースはどこにあるんだ…

(;・ω・)  やっと1枚の画像が終わった…けど、ピースが余りまくってる。

∑(;・ω・) え、これって全体の左上1/4だけだったの?



小一時間経過



(;・ω・)  やっと全部終わった…。


【元画像】



【できたもの】




何コレ。



…という感じで、実際の作業雰囲気はなかなか説明しづらいところがあるのですが、とりあえず、声を大にしてこれだけは言える。


こんなの、ジグソーパズルじゃねぇ!


大体ですね、そもそも「回答を教えてもらう」とか「おまえは言われたとおりに並べてりゃいいんだよ(ゲラ」とかっていう時点で、ジグソーパズルのジグソーパズルたる所以を喪失した、単なる紙クズでしかないのです。
ジグソーパズルのジグソーパズルたる所以は、ピースに描かれた色彩とピースそのものの形を心で感じ取り、頭で考え、苦悩し、ピースとピースをかみ合わせ、組み立てることにあるのです。
それは、一つ一つのピースに描かれた色やカタチが全て異なるからこそ成り立つのであり、こんな「何でも作れますよ~」的な頭のネジが何本も抜け落ちたような謳い文句で汎用性を持たせるようなものではないのです!
誰が何と言おうと…「楽しみ方は、人それぞれだよ」と言われようと、それがジグソーパズラー(何それ)に共通した、真の理なのです。
ただただ、バラバラになったピースをかみ合わせれば良いというものではないのですよ…。
心で感じ、頭で考える。
その二つの特徴を兼ね備えたジグソーパズルという嗜好は、人類の叡智が生んだ文化的且つ教育的財産なのです。


…とまぁ、そういうワケでして。
さっきの絵は、完成させて写真を撮った後、すぐに解体して片づけてしまいました。
画像のサイズや写真の撮り方にまで指定があることを知らずに、「どんな絵でも作れる」という意味に曲解してしまった私も愚かでしたが、それ以上に愚かだったのは、専用の額縁を一緒に買ってしまったこと。
このパズルは、一つのセットでいろんな絵を作れるわけで、「一つの絵」として固定してしまうのは、むしろ楽しみ方を間違っています。
まぁ、その際にはまた新しく買えば良いのですが、ぶっちゃけて言ってしまえば、

「こんな小さな絵をわざわざ額縁に入れて飾るのか?」

ということなのです。
今回のように、作ったら写真でも撮って、保存しておけば良いのです。
以前お話したとおり、そういう意味でも、私には不向きなパズルでした。
作っては壊してを繰り返して楽しむパズルなんか、私にはドMにしか思えません理解できません。


はてさて、伊藤のジグソーパズル人生はどこへ向かうのか。

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